東日本大震災復興ボランティア(石巻市)

2012年6月15日(金)~17日(日) 
東日本大震災復興ボランティア(石巻市)
<参加者> B雄 S美 S郎 T助 H男(文)の5人
15日午後9時、天気予報があまりよくなかったが、労山静岡県連盟傘下団体44人が震災復興支援ボランティアとしてバスで宮城県石巻市に向かった。私たち静岡労山は5人の参加者。宮城県は遠い。車中では睡眠は良く取れなかったが、3時間くらいは寝たかな。

 
16日の朝が明け、海辺を通るとまだ震災の傷が生々しい。去年の岩沼市、山本町の時と同様、唖然とする光景である。現地世話人と時間調整をしながら、朝食をとり、また実作業の服装に着替えたりしながらバスを進行させ、午前8時半ころには現場の牡鹿半島小網倉浜に到着。そこは小さな部落だったようだ。何もない。建物の土台だけが流されなかった。
 
 
京労山、千葉労山と合同で、流された建物跡の地面の整備を行った。具体的には、落ちている金属、石油製品、木片その他を拾い、仕分けする作業である。ただ落ちているものを拾うばかりでなく、船や流し台の部分が埋まっているのを掘り起こす。
 
 
に浸された地面は硬く固まり、スコップでは埒があかない。やがて大きなバールやつるはしが持ち込まれ力持ちが力を発揮した。こんな地味な作業でも復興の手助けになっているという自覚が持ててきた。小雨も降ってきて合羽を着ると暑い。
 
 
食の後、港で働いていた漁師が震災の当時の様子を話してくれた。そして前後するが今はそれでも元気に働けていること見てもらいたいといって、漁船でかつお一本釣りの餌生簀現場に希望者を連れて行って見学させてくれた。ここは1.5mの地盤沈下が起きたそうで、波除土嚢が長い距離置いてある。上げ潮になるとひたひたと海水が陸地に入ってくる。
 
 
 
が本降りとなった。作業も一段落したので打ち切り、宿泊所に行く途中、女川町の風呂に入った。原発風呂。浜岡のようにいい施設があちこちにある。  宿泊は石巻市水沼の地域センター。すでに東京労山、千葉労山が食事を作ってくれていた。ありがたいかぎりだ。やがて交流宴会となっていったが冒頭、労山宮城県連盟のなだれによる4人遭難が告げられ黙とうを奉げた。交流会は、各連盟の挨拶と東北の歌、石巻の歌、作詞作曲者自らの演奏、歌唱。宴も終わり、ほどほどにして持ってきたシュラフで就寝した。
 
 
17日朝、6時半ころまで雨。この日の作業は早々と中止。代わりに被災地見学をした。雨は上がり、天気は上々。三陸は峠を越えるごとに小さな漁村。被災地には何もない。
大きく報道された女川町病院、20数mの大津波が高台にあるこの病院まで至った。犠牲児童を大量に出した大川小は裏山に小学生が登れるか、非難指示をを誤ったのではないか、論議はいろいろだが実際に見学できた。
 
 
 
三陸町は鉄骨だけになった防災センター、まだ船が乗っかった建物、瓦礫の山々。惨憺たる状態は何時まで続くのか。
見学は午前中で切り上げ、帰郷となった。静岡着午後11時だった。