修験道の一大霊場であった”曼荼羅村山古道”
画面左手に美穂松原、清見寺・清見ケ関が描かれ、
西からやってくる参拝者が富士宮本宮の湧玉池で禊をして、
中間部にある村山浅間神社・大日堂にて七日間の水垢離行をする。
この後、、中宮八幡宮・御室大日堂・
そして12世紀に(注釈1)末代上人が建立した大日寺へと道が続いている。
(注1:平安末期に真言修験者の末代が、山頂に大日寺を建立し、 一切経を埋納したのを契機に、御神体とされ、麓から崇め、
拝むだけだった富士山信仰は一気に修験道の霊場となり、
山頂への道は、生まれ変わりたいと言う浄土の世界観から
近代の登山の山へと変容して行った。)
1、久安5年(1149年)『本朝世紀』には、末大上人が、 登山を多く行ったとある。
2、正嘉3年(1259年)の紀年銘である、木造坐像が、 村山・大日堂の旧本尊であった。
末大上人が開いた登山道を起源として、最古の登山道が完成された。
それが村山口登山道の”村山古道”たる所以である。
【】国立国会図書館デジタルアーカイブより参照【】
(重要文化財: 絹本着色富士曼荼羅図 ケンポンチャクショクフジマンダラズ16世紀室町期 )
そんな目で山頂に立つと、今まで興味のなかった三保半島が、旧東海道が一望できる、
この眺望は当時の参拝者にどんな衝動?(下界に無事に降りれたら何をしたい?)
感動をもたらしたのだろうか?
または命を落とす者も多く居ただろう。
過酷な登攀を達成した祈願は、その後の彼等の人生に何をもたらしたのだろうか?
当時の人々に思いを馳せると興味は尽きない人間の本質が見えてくる。
【】参照:BehBer様作成≪富士山と三保の松原空撮≫2009年12月28日12時54分【】
この辺も家が点在しているだけに、犬が狂ったように吠えまくられる